白村江の戦い 年表
【半島情勢】
660 年 7 月 唐・新羅連合軍が百済を攻め、王都扶余を占領。百済の義慈王と太子の扶余隆ほか王族は降伏。
8 月~ 各所で旧百済人貴族らによる反乱がおこる。
同年 9 月、翌年 2 月に唐軍が駐留する泗沘城を囲む(鬼室福信が指揮をとる)など活動が活発化。
9 月 百済復興軍より鬼室福信が倭に使者。10 月に到着。百済復興軍への助力を乞う。
661 年 4 月 鬼室福信、再度使者を遣わし、余豊璋の帰還を乞う。百済軍が食糧不足や疫病などにより百済より撤退。
8 月 復興軍、勢力を盛り返し甕山城を占拠。その後一進一退の攻防を繰り広げる。
このころ、内部争いにより僧道琛が殺害され、鬼室福信が復興軍内で主導権を握る。
661 年 11 月 (日本世記によれば)鬼室福信、唐軍の捕虜 100 人を倭に献上。
662 年 5 月 余豊璋、即位。
12 月 百済復興軍、州柔より避城へと拠点を移す。
663 年 2 月 新羅が百済南部の 4 州を攻撃、拠点である避城が危ないため百済軍は再び州柔へと戻る。
6 月 余豊璋、鬼室福信を殺害。
8 月 13 日 新羅、周留城への攻撃を謀る。
百済、倭からの派兵の情報を聞き、白村江にて歓迎の宴を計画する。
17 日 新羅、周留城を包囲。
唐軍、戦船 170 艘を率い、白村江に陣取る。
9 月 7 日 州留城陥落。百済人ら、倭への亡命を決定。
11 日 百済・倭の敗軍、牟弖へと出立、13 日に弖礼へ至る。
25 日 帰国・亡命者、弖礼城を出立。倭へ。
【国内情勢】
660 年 12 月 斉明天皇、福信の願いにこたえ百済復興に助力することを決定。
軍備を整え、船を作るなど、派兵の準備を行う。
661 年 1 月 斉明天皇一行、派兵のため都を出立し筑紫へと向かう。伊予の熟田津(にきたつ)の石湯(現在の愛媛県松山市道後温泉)に仮の宮を作り逗留。大田皇女(斉明天皇の孫)、出産。
3 月 斉明天皇一行、娜大津(現在の福岡市博多区)に到着。磐瀬仮宮に逗留。
5 月 斉明天皇一行、朝倉橘広庭宮(現在の福岡県朝倉市)へと遷居。
7 月 斉明天皇死去、以後、中大兄皇子(後の天智天皇)が称制により出兵の指揮をとる。
8 月 天智天皇、朝倉広庭宮を棄て、磐瀬仮宮(長津宮)へ。
阿倍比羅夫らからなる 1 万 7 千人余の兵を豊璋に随行させ、百済へと派兵。
661 年 10 月 天智天皇、難波の宮へ帰還。以後そこで半島派兵を指揮。
662 年 1 月 天智天皇、鬼室福信に軍事物資を贈る。
663 年 3 月 天智天皇、上毛野君稚子らに 2 万 7 千の兵を与え半島へ。
6 月 上毛野君稚子ら、新羅の 2 城を攻め落とす。
8 月 このころ、倭の第 3 次遠征軍(1 万人規模)派兵か。
【白村江の戦い】
663 年 8 月 27 日 倭軍、白村江に到達。初戦。
28 日倭・唐軍、本格的に交戦。倭軍大敗。